蟹3

感想と怪文書

住宅街を歩く

今月は比較的よく歩いている。いつもなら1日あたり7500歩(万歩計アプリ内の目標値)を達成するのはひと月にせいぜい2,3回であったが、今月はこのペースなら10日は達成できるかもしれない。達成できていない日でも概ね5000歩は歩いている。
散歩はたいてい近所の住宅街を歩く。別に歩ければどこでもいいのだが幅員6メートルの路地は大通りに比べて車も人も少なく静かでよい。大きな公園も悪くないが経路選択の余地があまりなく飽きてしまう。住宅地は道が入り組んでいるので、近所と言っても通ったことのない場所が多く、ささやかな冒険心を満たしてくれる。何も考えずに右折左折を繰り返していると現在地がわからなくなるのも一興。
少し遠出して知らない町を散歩することもある。休日に車で適当に離れたところまで行き、車を停めた公共施設などの近辺をさも地元住民のような顔で歩き回る。意味不明に思われるかもしれないがただの散歩だ。当然歩く場所全て初めて訪れるわけで、見えるもの全てがおそらくもう二度と目にすることもないというのが、単なる徘徊を特別なもののように錯覚させる。
とはいえ、所詮自宅から数キロ数十キロ離れているだけではパッと見の印象はそんなに変わらない。地続きの隣の町内だと言われても疑わない。初めて来る場所なのに、どこかで見たことがあるように感じる奇妙さが楽しい。

住宅街では音よりも匂いのほうが多彩に感じられる。夕方ならば当然夕飯の匂いが空腹を掻き立てるが、食事時でなくとも実は色々な匂いがある。子どもの頃、友達の家に遊びに行くとそれぞれの「家の匂い」があった。北島君の家には北島君の匂いがしたし、広瀬君の家には広瀬君の匂いがあった。自宅の匂いはよくわからなかったが我が家を訪れた友達も小泉家(仮名)の匂いを感じていたのだろうか。住宅街で家々の前を通り過ぎるとき、そんな夫々の匂いが微かに香ってくる。明確に何の匂いとは言い表せない、その家の匂い。嫌な匂いではないけれども、なぜか家ごとに全然違う。その中にはあの日嗅いだ広瀬家と同じ匂いがあったりするが、それは遠い記憶がそう感じさせる勘違いかもしれない。

当たり前だが、住宅街に住んでいるということは土地を買い家を建てたということである。相続した場合もあるかもしれない。建築様式が今風の家は現役世代の家主がローンを組むなどして自ら建てたものだろう。土地を買ったことも家を買ったこともないが、金額は8桁に乗るだろうということはわかる。大抵の家では結婚していて子を育てているに違いない。玄関先には子ども用の自転車などが見える。これらの家々の住人たちは皆そのような偉業を成し遂げているのだと思うと、畏怖というか畏敬というかなにか複雑な気持ちになる。別に彼らが特別な人々というわけではないのだろうが、普通の一戸建て住宅の並びその全部が自分よりも人生ランクで明確に上位にいる証拠であり、さながらダンジョンでうっかりボスラッシュのエリアに迷い込んでしまったかのように感じる。幸いなことにボスが襲い掛かってくることはないので、こうして散歩をすることができる。

暗くなると住宅には明かりが灯り、そこで人が生活しているということがより鮮明になる。暗いままの家は出かけているのか、もう誰も住んでいないのか。空き家はあと何年そこに建っているのだろう。取り壊すのはきっと手間もお金もかかり面倒に違いない。
時々、道路に面した窓から家の中が見えることがある。塀や庭木がなくカーテンも開いていると室内の調度まで目視できる。もちろん覗きは犯罪なので不躾に視線を向けないよう気を付けながらも、視界の端にチラと映るそれは何の変哲もない生活の模様である。ボスラッシュだったはずなのに、中身はどこもそう変わらない普通の人たちであるのがとても恐ろしく思う。それが道に沿って何軒も何十軒も並んでいる。そんな住宅街を歩く。