蟹3

感想と怪文書

誰が橙さんを書き換えたのか

ケムリクサ11話までネタバレ。

11話にて、ついにケムリクサ世界の謎が大部分明らかになった。最終回に残すはりりがケムリクサを発動してから姉妹が目覚めるまでの間に起こったこと、そして旅の結末のみである。10話までほとんどのカードを伏せておきながら11話だけで一気にオープンする構成力は見事と言う他ない。
結末はたつきを信じるとして、目覚めまでの出来事は多少考察の余地がある。その手がかりになるのが橙色のケムリクサを書き換えたのは誰か、という点だ。

ワカバ説

ネットで有力視されているのが「ワカバ説」。
根拠として、

  • 書き換え後の「すきに生きて」はワカバのセリフであること
  • わかばが1島で出現したのはワカバが一度1島に来ているからではないか

ということが考えられている。ただ、そもそも筆跡が書き換え前後で変わっていないように見えるのが引っかかる。そういう細かいとこ拘るアニメじゃなかったか。また、仮にワカバが1島まで戻ってきたとするなら、あんな決死の覚悟で立ち向かっておいて赤いケムリクサに負けて逃げたのかとか、りりと入れ違いになってなんで消えたのかとか、展開がいまいち不自然なような気がする。

りり説

一番ひねりがないというか素直なのは書いた本人が消した。つまり「りり説」。
11話終盤のりりのセリフから考えるに「自分をケムリクサ化」「大人化」「分割」の3種類の効果を発動させていると考えられる。例えば大人化の段階でワカバ(大人)と同じ考え方に至り、分割後の自分(記憶がないならほぼ他人)にやりたいことを押し付けるのをやめた、とかいう流れかもしれない。ちょっと無理あるか。そもそもケムリクサの仕様がよくわかってないのでほぼ妄想の域を出ない。

ななし説

個人的に推している第三の説が「ななし説」。
ななしというのは個人制作版ケムリクサの設定にのみ出てくる記憶を受け継いだ姉妹。個人制作版では7姉妹だったのだ。名前がないのは一番最初に目覚めてすぐ赤霧に飛び込んで自殺した、という設定だから。TV版は今のところ6人しか登場していないがどこにも6姉妹とは書いてない。つまり、記憶の葉をもった長女がいたが、記憶を受け継いでいるのでりりのしてしまったことへの罪悪感から自殺してしまったのだ!!彼女は全てを自らの死で償い、妹たちには自由に生きてほしいと願いながら消えていったのだった…。
まあ、ないな。書き換え後に「記憶の葉も」って書いてるし。でも個人制作版からのファンなので(古参イキリ)なにかしらそういう設定の残ってる部分があると嬉しい。ワカバが異星人ぽい設定も個人制作版から見ればそれほど意外でもない。

結局今わかることだけじゃ確実なことはなにも言えない。ただ、

  • 回想終盤で1島まで赤霧が到達しているのに0.5話時点では1島は比較的安全な場所であること
  • 同じく赤霧の拡大に伴って暗い空だったのに0.5話時点では夕焼け程度の明るさを取り戻していること(1話ではもう暗くなっているので結局押し戻されている様子)

などから考えると、りりのケムリクサ発動から姉妹の目覚めまでの間に、もう少し物語がありそうな感じはする。赤いケムリクサと戦ってある程度は抑え込むことはできたものの力尽きてしまった、みたいな何かがありそう。
結末を知らない状態で観ることができるのもあと数日しかない。たぶん5周くらいした。個人的には、けものフレンズもガイドブック全巻買うくらいには好きだったけど、どっちかえらべと言われたらケムリクサ。なにしろ古参なので(イキリ)。たつき自身がキャラクターたちが旅した結果ならハッピーでもバッドでもいいと言っているので、正直どうなるかはわからないけれど、どんな結末になっても観てよかったと思えるアニメになるであろうことはわかる。その点ではたつきを信頼している。

でもりつ姉を泣かせたらお前のアニメ当分観ないからな。

『カメラを止めるな!!』(若干ネタバレ)

先日金曜ロードショーで放送された『カメラを止めるな!』を観た。評判通り面白かった。

仕方ないことではあるが、前半の「40分ワンカット」をテレビで実現させたせいで後半は怒涛のCMラッシュが挟み込まれてしまい、せっかくの面白さが大幅に損なわれたと思う。テレビという媒体でCMを無くすのも無理だろうから、これは劇場公開中に観に行かなかった自分が悪い。こういう映画は特に劇場の一体感みたいなものも魅力のひとつだと思われるので、その意味でも後悔が残る。テレビならSNSの実況という楽しみ方があるし監督&キャストの副音声も気になったが、それらも視聴済みのほうが楽しいだろうし、やっぱり映画館に行っておくべきだった。まあ、今更しょうがない。
テレビ放送にあたって「ゾンビは出るけどホラーじゃありません」「諦めずに最後まで観てください」と異常にしつこく念押しされていて、視聴率のためとはいえさすがに野暮すぎないか。あげくに「前半ノーカット」までバラすのは「前半部分がノーカットであることに重要な意味がある」と言っているようなもので、あまりに風情がない。これも劇場で観ておかなかったお前が悪いと言われればぐうの音もでないが。

とても面白かったが、映画のプロモーションでありがちな、いわゆる「どんでん返し」的なものを予想、期待していた場合は肩すかしを食らうだろうなと思った。実際そういう宣伝はしてなかった気がするが、あまりにも「ネタバレ厳禁」言われまくっていたせいで勝手にそういう系統だと思い込んでいた節はある。わざとらしい嘘くさいスプラッタとカメラマン本人の存在を仄めかす描写のおかげで米澤穂信の『愚者のエンドロール』的なオチかと推理してみたり。
さて、蓋を開けてみれば、そういうトリックではなくてただ単純に表と裏を順番に見せるという素直な話だった。いや、めっちゃ可笑しかったしあのシーンはこういうことだったのかっていう感心はあったけど、期待値を上げすぎたと言うか期待の方向を間違えたと言うか。散々うるさく思わせぶりなことを言われたおかげで、この一見お粗末な前半パートにどんな巧妙な仕掛けが!?と前のめりな姿勢(実際はソファーで寝ながら観たけど)だった分、余計に拍子抜けしてしまった。
あと視聴者も放送側も「前半はつまらない(けど後半で意味わかるから我慢して)」という意識は共通なのがちょっと笑った。まあ確かに酷かったけれども、どう考えてもただの無意味なお粗末映像のわけがないし、些細な違和感とか伏線を探してやろうって気にならんか?実際明らかに異様だったし、オチはともかくそういう意味では退屈ではなかったと思う。B級ゾンビ映画への耐性のせいか。
劇中で『ONE CUT OF THE DEAD』が低クオリティになってしまったのは予算とか企画の無謀さとか役者の不手際とかのせいだった。後半パートが誇張はしつつも割とリアルな感じで映画製作の雰囲気を描いているので、ああいうのって業界あるあるなのかなと思わされる。実際の邦画制作現場もあんな風に上に振り回されながらクソ映画を量産していて、そのことへの皮肉も込めてるのかとちょっと思ったけどたぶんそんなことはない。

『サピエンス全史』

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

今更ながら読んだ。俺が途中で投げ出さずに最後まで読めたということはたぶん面白かったんだと思う。感想が曖昧。なにしろ下巻だけで3カ月かかったので細かいことは覚えてない。上巻は一体いつから読み始めたのかもわからない。久々に読書に挑戦しようという人間がお気軽に読むものではなかった。

タイトルの通り、有史以前を含む現在までの人類の歴史。そして未来。「人類」全史ではなく「サピエンス」全史なのは、かつてはサピエンス以外にも人類がいたから。ホモ・エレクトゥスやら何やら。そのなかで我々サピエンスが勝ち残り今に至るのは何故か。
本書ではそれを「認知革命」「農業革命」「科学革命」という3つの大きな変革で説明する。農業と科学はまあなんとなくわかるが、認知革命というのはあまり聞かない。たとえば貨幣、国、宗教などは実際にそういう物体があるわけではなく、虚構である。それを、集団全員が共通認識として「ある」と信じ込むことによって、本来は交わることがなかったはずの見知らぬ人同士が協力できるようになるという、想像力の革命。共通の虚構は秩序となってより多くの人々をまとめあげるので、人類の統一が促進されていくことになった。
農業革命、科学革命を経て(うろ覚えなので割愛)、現状サピエンスは地上の支配者として君臨しているように見えるが、人類の発展がそれすなわち人類の幸福とは必ずしも言えない。農業革命は確かに人類の発展だったかもしれないが、個々の生活レベルではむしろそれ以前の方が満ち足りていた可能性がある。科学は資本主義に正当化されて今後も発展を続け、その結果我々はシンギュラリティを超えてサピエンスから超ホモ・サピエンスへと人工的に進化していく。そこでは感情を自在にコンロール可能で、幸福感すらも人造できるかもしれない。だからこそ、人類は今後何を望みたいのか?幸福とは何なのか?を自己定義していかなければならないのだ。
なんというか、通史として眺めると如何に人類が偶然たまたま今の位置に立っているにすぎないかというのがわかり、それゆえに未来がどうなるかもぜんぜんわからない。今後どうなるかわからないということは、頑張れば道を選び取っていけるということなので、可能性を目の前にしてちゃんと考えていこうぜ、みたいな本ということで理解した。したということにした。
 資本主義すらもただの宗教にすぎないと言ってのける認知革命云々は割と衝撃的な内容だと思われるが、社会に適合できない感覚を持つ人であればすんなり受け入れられると思う。社会という虚構を信じ切れていないので。かつて信じられていた虚構の多くは今やファンタジーになってしまっているので、たとえば自由や人権も決して普遍的永続的とは断言できない。そう考えると、すこし身体が軽くなったような気がする。宇宙の広さと比較して悩みの矮小さを知るように、歴史の深みを覗くことでもまた、自分の些末さを知るのである。
内容の濃さの割になんとか読めた(読めたのか?)のは多分書き方の問題で、素人目でもこの著者は切れ者だなという痛快な印象を持った。著者近影とかもう完全にヤバいインテリって感じだし(?)、イスラエル出身ユダヤ人っていうのもなんかヤバい知恵者って感じがする(??)

この本が話題になったころ、けものフレンズ考察班なる人々によって取り上げられてオタク認知度が上がり、俺もそこで知ったのだけど、正直けものフレンズとか余計なことを関連付けながら読む余裕はなかった。すごーい。おもしろーい。以上。けものフレンズの物語構造が人類史をなぞっているようだ、ということで挙がったのだと思われるが、そうするとかばんちゃんはいずれ超かばんちゃんになるのだろうか。2期を見ていないのでわからないが、かばんちゃんが登場したときオタクが騒いでいたので、きっと進化していたのかもしれない。