蟹3

感想と怪文書

エオルゼア都市国家と獣人

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この文章はロールプレイのお遊びであり、何らかの主張、考察、問題提起をするものではありません Nyan Manya

はじめに

神々に愛されし地エオルゼアには多くの人種が住まう。これら諸種族は文化的にも生物学的にも大きな差異があるにもかかわらず、同じ「人」として共に国を作り歴史を紡ぎ今日に至る。一方で、人とほぼ同等の知能、独自に発達した文化を持ちながら人の枠組みから外された者たちがいる。彼らは獣人と総称される。
筆者は冒険者として各地を訪れるなかで多くの獣人と出会い、時には刃を交え、時には協力することもあった。敵対的であれ友好的であれ、獣人と人間との間に外見以外のさしたる違いは無いように思われた。身長に3倍近くもの差があるルガディンとララフェルが同じ人として暮らすのであれば、獣人もまた人として共に生きることが可能なのではないか。
本論の目的は、エオルゼア都市国家群において、獣人種族がどの程度受容されているかを明らかにすることである。情勢変わりゆくエオルゼアにおける、獣人種族の現状と融和の可能性を探りたい。

調査方法

パッチ4.56時点での、プレイヤーキャラクター(紅蓮のリベレータークリア済Lv:70)が立ち入り可能な3国都市エリアマップを対象とし、目視できるNPC数をカウントする。性別、同一種族内の部族(ミッドランダーとハイランダーなど)、ネームの有無(ターゲットの可否)はいずれも問わない。*1他のプレイヤーキャラクターはカウントしない。シーズナルイベント開催中はNPC配置が変更されるため調査しない。

結果

各都市の結果は表①の通り。獣人の割合はリムサ・ロミンサで3.2%、それ以外の都市では1%を下回っている。
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獣人の内訳は表②の通り。このうち、各都市のモーグリ族は全て手紙の配達に従事するレター・モーグリである。したがって、グリダニアでは純粋な居住者ないし訪問者として滞在する獣人は見つからなかったことになる。
本調査では市街地の往来のみを対象としているため、この結果が必ずしも獣人の積極的排除を意味するものではない。しかしながら、少なくとも都市国家市民の多くにとって獣人が決して見慣れた存在ではないということが言えるだろう。

リムサ・ロミンサ

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Limsa Lominsa
バイルブラント島南部に位置する海洋都市リムサ・ロミンサは、圧政から逃れる為北洋諸島から脱出した移民を起源とする。歴代の指導者は海賊レース「トライデント」により決定され、現提督メルウィヴ・ブルーフィスウィン女史もまた海賊シルバーサンド一家首領の経歴を持つ。このような歴史のためか自由闊達な気風があり、3国の中では比較的獣人の姿が見受けられる。また市民の大半が海運業に従事しており、商才に富むキキルン族やゴブリン族にとって重要な交易拠点になっているという理由もあるようだ。
一方で、バイルブランド島に先住していたコボルド族およびサハギン族とは領土をめぐって軍事対立している。同時に2種族と敵対関係にある都市はリムサ・ロミンサのみである。

ウルダハ

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Ul'dah
砂都ウルダハはアルデナード小大陸南端のザナラーン砂漠一帯を領する交易都市国家である。王政を敷いてはいるものの、統治実権は実業家が過半を占める砂蠍衆の手にあり、商人の影響力が強い都市と言える。
第六星暦1559年に施行された「獣人排斥令」により、都市国家の中で唯一法的に獣人排除を行っている。しかし、この排斥令では「獣人」に規定されているのは商業的に競合していたシルフ族、ゴブリン族、キキルン族、および軍事的敵対関係にあるアマルジャ族を加えた4種族のみであり、経済規制の意味合いが強いと思われる。経済情報誌「ミスリルアイ」によれば、排斥令施行前のウルダハでは行商として出入りするシルフ族やゴブリン族が珍しくなかったことが窺える。*2

彼ら獣人を都市内に受け入れるべきか否かについては、我がウルダハにおいても重要な政治的問題として取りざたされ、十余年前に砂蠍衆が獣人排斥の方針を打ち出すこととなった。かくして都市内から獣人は締め出され、国際市場からシルフ族のクリスタル商やゴブリン族の古物商の姿が消えたのである。

砂蠍衆においてはテレジ・アデレジ氏の失脚が記憶に新しい。後任次第では、経済緩和やそれに伴う排斥令撤廃の可能性もある。ただし、アマルジャ族については都市への侵攻や誘拐事件など対立理由が経済的なものではなく、依然緊迫した関係が続くものと思われる。

グリダニア

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Gridania
ティノルカ地方黒衣森に囲まれた田園都市グリダニアは、森の精霊の神託に重きを置く。三重の幻術皇をはじめとした角尊と呼ばれる特異体質者が精霊との交信を担い様々な意思決定を行っており、森に害なす者には精霊の怒りが下るとされている。
こうした精霊信仰に立脚しているためかやや閉鎖的な風土があり、市中に獣人はほぼ存在しない。しかしながら、森のモーグリ族とは比較的良好な関係を築いており、角尊たちがモーグリ族と同行する姿が目撃されている。*3また、黒衣森北部に住むシルフ族の一部もある程度友好的であることが知られており、シルフの仮宿では駐留している双蛇党隊員の姿を見ることができる。
一方、グリダニア建国前に黒衣森からゼルファトル渓谷へ移住したイクサル族とは対立しており、他国同様主に領土問題でしばしば衝突を起こしている。

その他の事例

低地ドラヴァニアにかつて存在したシャーレアンの植民都市は第六星暦1562年の「大撤収」により全住民が本国へ帰還し遺棄された。その跡地は現在、ゴブリン族の一派と人間のトレジャーハンターによって自由都市イディルシャイアとして名前を変え再建されている。イディルシャイアはほぼ同数の人間とゴブリン族が共同で運営を行っており、現在のエオルゼアでは最も獣人融和が実現している都市であると言えよう。
クルザスの山岳地帯を領有する宗教国家イシュガルドは、近年外部の冒険者勢力の助力などを得て竜詩戦争の終結が宣言された。前教皇に代わり指導者となった神殿騎士団総長アイメリク・ド・ボーレル卿はドラゴン族との講和を掲げる革新的な人物であり、和平式典にドラゴン族を招くなどの試みを行なっている。ドラゴンを獣人に含めるかどうかは異論があるものの、他種族との融和という観点では非常に大きな意味をもつ事例である。
エオルゼアの外に目を向けると、東州オサード小大陸南部にかつて存在し、30年前ガレマール帝国の侵攻で滅亡したダルマスカ王国の事例がある。筆者は独自にダルマスカ銃士隊の元隊員に聞き取りを行うことができた。彼らの隊は隊長を含め多くのバンガ族で構成されており、帝国軍の侵攻時には王女の護衛任務を帯びていたという。王族の身辺警護など重要な役割に獣人を起用している点に、ダルマスカ王国のダイバーシティを見ることができる。

蛮族と呼ばれる者たち

本論では6人種以外の種族を一貫して獣人と呼称しているが、人々の間では「蛮族」という呼称が一般的に使われている。再びウルダハ経済情報誌「ミスリルアイ」から引用する。

近年、獣人の一部を「蛮族」と呼ぶ風潮が広がりを見せている。
帝国が蛮神を呼び降ろした民を「蛮族」と認定し、徹底的な弾圧を加えていることが広く知れ渡ったためだ。

この記事によれば、獣人種族が蛮族と呼ばれるようになったのは第六星歴末期以降、すなわちここ五年から十年程であり、背景にはガレマール帝国の影響がある。ガレマール帝国は蛮神討滅を国是に掲げており、蛮神召喚が絶えない未開の地を文明化せんがためのエオルゼア侵攻であると主張している。帝国にとってはエオルゼアの民もまた蛮族に他ならない。*4
本論は蛮族という呼称や蛮神召喚の是非を論ずるものではない。実際に各国では獣人との交戦で被害が出ており、市民にとっては恐怖と忌避の対象になるのも無理からぬことである。今回の調査結果の背景にもそうした感情が無関係ではない可能性が高い。しかしながら、かの帝国がエオルゼアに向ける蛮族観と同じ構造がエオルゼア内部で再生産されつつあるという点には留意すべきだろう。

おわりに

先般、エオルゼアと北州イルサバード大陸の境界ギムリト地方にて本格的な戦端が開かれた。各国の指導者はガレマール帝国という共通の脅威を前にかつてない協調体勢を見せている。しかしながら、たとえ帝国の侵攻を退け、都市国家同盟の結束がより強固になったとしても、「蛮族問題」がある限り真に平和が訪れたとは言えない。帝国同様に武を持って制するのか、あるいは他の道を模索するのか。それは単なる領土紛争にとどまるものではなく、エオルゼアの民が蛮族か否かという問題である。獣人の理解を深めんとする姿勢こそが、その分水嶺になるのではないだろうか。


《参考文献》
Encyclopaedia Eorzea ~The World of FINAL FANTASY XIV~
Encyclopaedia Eorzea ~The World of FINAL FANTASY XIV~ Volume II
FF14 Online Wiki - FF14用語辞典やコミュニティもあるFF14総合サイト

*1:調査趣旨に照らせば人間6種族を分ける必要はないが、各都市の人種多様性を示すために敢えて区別した

*2:原本(旧ロードストーン)は第七霊災により逸失したため二次引用 https://ff14wiki.info/2206.html

*3:通常モーグリ族は魔法で姿を隠している

*4:実際にエオルゼアの「人間」が蛮神召喚を行った事例も確認されている

誰が橙さんを書き換えたのか

ケムリクサ11話までネタバレ。

11話にて、ついにケムリクサ世界の謎が大部分明らかになった。最終回に残すはりりがケムリクサを発動してから姉妹が目覚めるまでの間に起こったこと、そして旅の結末のみである。10話までほとんどのカードを伏せておきながら11話だけで一気にオープンする構成力は見事と言う他ない。
結末はたつきを信じるとして、目覚めまでの出来事は多少考察の余地がある。その手がかりになるのが橙色のケムリクサを書き換えたのは誰か、という点だ。

ワカバ説

ネットで有力視されているのが「ワカバ説」。
根拠として、

  • 書き換え後の「すきに生きて」はワカバのセリフであること
  • わかばが1島で出現したのはワカバが一度1島に来ているからではないか

ということが考えられている。ただ、そもそも筆跡が書き換え前後で変わっていないように見えるのが引っかかる。そういう細かいとこ拘るアニメじゃなかったか。また、仮にワカバが1島まで戻ってきたとするなら、あんな決死の覚悟で立ち向かっておいて赤いケムリクサに負けて逃げたのかとか、りりと入れ違いになってなんで消えたのかとか、展開がいまいち不自然なような気がする。

りり説

一番ひねりがないというか素直なのは書いた本人が消した。つまり「りり説」。
11話終盤のりりのセリフから考えるに「自分をケムリクサ化」「大人化」「分割」の3種類の効果を発動させていると考えられる。例えば大人化の段階でワカバ(大人)と同じ考え方に至り、分割後の自分(記憶がないならほぼ他人)にやりたいことを押し付けるのをやめた、とかいう流れかもしれない。ちょっと無理あるか。そもそもケムリクサの仕様がよくわかってないのでほぼ妄想の域を出ない。

ななし説

個人的に推している第三の説が「ななし説」。
ななしというのは個人制作版ケムリクサの設定にのみ出てくる記憶を受け継いだ姉妹。個人制作版では7姉妹だったのだ。名前がないのは一番最初に目覚めてすぐ赤霧に飛び込んで自殺した、という設定だから。TV版は今のところ6人しか登場していないがどこにも6姉妹とは書いてない。つまり、記憶の葉をもった長女がいたが、記憶を受け継いでいるのでりりのしてしまったことへの罪悪感から自殺してしまったのだ!!彼女は全てを自らの死で償い、妹たちには自由に生きてほしいと願いながら消えていったのだった…。
まあ、ないな。書き換え後に「記憶の葉も」って書いてるし。でも個人制作版からのファンなので(古参イキリ)なにかしらそういう設定の残ってる部分があると嬉しい。ワカバが異星人ぽい設定も個人制作版から見ればそれほど意外でもない。

結局今わかることだけじゃ確実なことはなにも言えない。ただ、

  • 回想終盤で1島まで赤霧が到達しているのに0.5話時点では1島は比較的安全な場所であること
  • 同じく赤霧の拡大に伴って暗い空だったのに0.5話時点では夕焼け程度の明るさを取り戻していること(1話ではもう暗くなっているので結局押し戻されている様子)

などから考えると、りりのケムリクサ発動から姉妹の目覚めまでの間に、もう少し物語がありそうな感じはする。赤いケムリクサと戦ってある程度は抑え込むことはできたものの力尽きてしまった、みたいな何かがありそう。
結末を知らない状態で観ることができるのもあと数日しかない。たぶん5周くらいした。個人的には、けものフレンズもガイドブック全巻買うくらいには好きだったけど、どっちかえらべと言われたらケムリクサ。なにしろ古参なので(イキリ)。たつき自身がキャラクターたちが旅した結果ならハッピーでもバッドでもいいと言っているので、正直どうなるかはわからないけれど、どんな結末になっても観てよかったと思えるアニメになるであろうことはわかる。その点ではたつきを信頼している。

でもりつ姉を泣かせたらお前のアニメ当分観ないからな。

『カメラを止めるな!!』(若干ネタバレ)

先日金曜ロードショーで放送された『カメラを止めるな!』を観た。評判通り面白かった。

仕方ないことではあるが、前半の「40分ワンカット」をテレビで実現させたせいで後半は怒涛のCMラッシュが挟み込まれてしまい、せっかくの面白さが大幅に損なわれたと思う。テレビという媒体でCMを無くすのも無理だろうから、これは劇場公開中に観に行かなかった自分が悪い。こういう映画は特に劇場の一体感みたいなものも魅力のひとつだと思われるので、その意味でも後悔が残る。テレビならSNSの実況という楽しみ方があるし監督&キャストの副音声も気になったが、それらも視聴済みのほうが楽しいだろうし、やっぱり映画館に行っておくべきだった。まあ、今更しょうがない。
テレビ放送にあたって「ゾンビは出るけどホラーじゃありません」「諦めずに最後まで観てください」と異常にしつこく念押しされていて、視聴率のためとはいえさすがに野暮すぎないか。あげくに「前半ノーカット」までバラすのは「前半部分がノーカットであることに重要な意味がある」と言っているようなもので、あまりに風情がない。これも劇場で観ておかなかったお前が悪いと言われればぐうの音もでないが。

とても面白かったが、映画のプロモーションでありがちな、いわゆる「どんでん返し」的なものを予想、期待していた場合は肩すかしを食らうだろうなと思った。実際そういう宣伝はしてなかった気がするが、あまりにも「ネタバレ厳禁」言われまくっていたせいで勝手にそういう系統だと思い込んでいた節はある。わざとらしい嘘くさいスプラッタとカメラマン本人の存在を仄めかす描写のおかげで米澤穂信の『愚者のエンドロール』的なオチかと推理してみたり。
さて、蓋を開けてみれば、そういうトリックではなくてただ単純に表と裏を順番に見せるという素直な話だった。いや、めっちゃ可笑しかったしあのシーンはこういうことだったのかっていう感心はあったけど、期待値を上げすぎたと言うか期待の方向を間違えたと言うか。散々うるさく思わせぶりなことを言われたおかげで、この一見お粗末な前半パートにどんな巧妙な仕掛けが!?と前のめりな姿勢(実際はソファーで寝ながら観たけど)だった分、余計に拍子抜けしてしまった。
あと視聴者も放送側も「前半はつまらない(けど後半で意味わかるから我慢して)」という意識は共通なのがちょっと笑った。まあ確かに酷かったけれども、どう考えてもただの無意味なお粗末映像のわけがないし、些細な違和感とか伏線を探してやろうって気にならんか?実際明らかに異様だったし、オチはともかくそういう意味では退屈ではなかったと思う。B級ゾンビ映画への耐性のせいか。
劇中で『ONE CUT OF THE DEAD』が低クオリティになってしまったのは予算とか企画の無謀さとか役者の不手際とかのせいだった。後半パートが誇張はしつつも割とリアルな感じで映画製作の雰囲気を描いているので、ああいうのって業界あるあるなのかなと思わされる。実際の邦画制作現場もあんな風に上に振り回されながらクソ映画を量産していて、そのことへの皮肉も込めてるのかとちょっと思ったけどたぶんそんなことはない。

『サピエンス全史』

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

今更ながら読んだ。俺が途中で投げ出さずに最後まで読めたということはたぶん面白かったんだと思う。感想が曖昧。なにしろ下巻だけで3カ月かかったので細かいことは覚えてない。上巻は一体いつから読み始めたのかもわからない。久々に読書に挑戦しようという人間がお気軽に読むものではなかった。

タイトルの通り、有史以前を含む現在までの人類の歴史。そして未来。「人類」全史ではなく「サピエンス」全史なのは、かつてはサピエンス以外にも人類がいたから。ホモ・エレクトゥスやら何やら。そのなかで我々サピエンスが勝ち残り今に至るのは何故か。
本書ではそれを「認知革命」「農業革命」「科学革命」という3つの大きな変革で説明する。農業と科学はまあなんとなくわかるが、認知革命というのはあまり聞かない。たとえば貨幣、国、宗教などは実際にそういう物体があるわけではなく、虚構である。それを、集団全員が共通認識として「ある」と信じ込むことによって、本来は交わることがなかったはずの見知らぬ人同士が協力できるようになるという、想像力の革命。共通の虚構は秩序となってより多くの人々をまとめあげるので、人類の統一が促進されていくことになった。
農業革命、科学革命を経て(うろ覚えなので割愛)、現状サピエンスは地上の支配者として君臨しているように見えるが、人類の発展がそれすなわち人類の幸福とは必ずしも言えない。農業革命は確かに人類の発展だったかもしれないが、個々の生活レベルではむしろそれ以前の方が満ち足りていた可能性がある。科学は資本主義に正当化されて今後も発展を続け、その結果我々はシンギュラリティを超えてサピエンスから超ホモ・サピエンスへと人工的に進化していく。そこでは感情を自在にコンロール可能で、幸福感すらも人造できるかもしれない。だからこそ、人類は今後何を望みたいのか?幸福とは何なのか?を自己定義していかなければならないのだ。
なんというか、通史として眺めると如何に人類が偶然たまたま今の位置に立っているにすぎないかというのがわかり、それゆえに未来がどうなるかもぜんぜんわからない。今後どうなるかわからないということは、頑張れば道を選び取っていけるということなので、可能性を目の前にしてちゃんと考えていこうぜ、みたいな本ということで理解した。したということにした。
 資本主義すらもただの宗教にすぎないと言ってのける認知革命云々は割と衝撃的な内容だと思われるが、社会に適合できない感覚を持つ人であればすんなり受け入れられると思う。社会という虚構を信じ切れていないので。かつて信じられていた虚構の多くは今やファンタジーになってしまっているので、たとえば自由や人権も決して普遍的永続的とは断言できない。そう考えると、すこし身体が軽くなったような気がする。宇宙の広さと比較して悩みの矮小さを知るように、歴史の深みを覗くことでもまた、自分の些末さを知るのである。
内容の濃さの割になんとか読めた(読めたのか?)のは多分書き方の問題で、素人目でもこの著者は切れ者だなという痛快な印象を持った。著者近影とかもう完全にヤバいインテリって感じだし(?)、イスラエル出身ユダヤ人っていうのもなんかヤバい知恵者って感じがする(??)

この本が話題になったころ、けものフレンズ考察班なる人々によって取り上げられてオタク認知度が上がり、俺もそこで知ったのだけど、正直けものフレンズとか余計なことを関連付けながら読む余裕はなかった。すごーい。おもしろーい。以上。けものフレンズの物語構造が人類史をなぞっているようだ、ということで挙がったのだと思われるが、そうするとかばんちゃんはいずれ超かばんちゃんになるのだろうか。2期を見ていないのでわからないが、かばんちゃんが登場したときオタクが騒いでいたので、きっと進化していたのかもしれない。